ペナン島がたどった歴史とは?年表使ってわかりやすく解説!
- 2020.06.15
- マレーシア
「東洋の真珠」とも呼ばれ、マレーシアの中でも有数の観光地となったペナン島。しかし現在の姿になるまでには、さまざまな困難と葛藤を繰り返し、そして乗り越えてきました。
そこでこのページでは、ペナン島がたどってきた歴史を年表使ってわかりやすくご説明いたします。
年表
まずは、ペナン島に関する歴史の年表を見てみましょう(青字は観光に関するできごと)。
支配国 | 西暦 | できごと |
---|---|---|
ケダ | 1592年 | イギリス人がペナン島に初上陸 |
イギリス | 1771年 | フランシス・ライトがペナン島支配を提言 |
1786年 | イギリスがペナン島を支配 ローマ・カトリック大聖堂の設立 |
|
1787年 | 関税の撤廃により人口が増加し始める 初代の中国人カピタンにコ・レイ・ファンを任命 |
|
1790年 | ケダ王国が約束を守らないイギリスに反抗 | |
1801年 | カピタン・クリン・モスクの建設 | |
1806年 | 造船業に着手 | |
1809年 | 最高裁判所が完成 | |
1816年 | 東南アジア初の英語学校「ペナン・フリー・スクール」創設 | |
1819年 | セント・ジョージ教会の設立 | |
1820年 | アチェ・モスクの設立 | |
1833年 | マハ・マリアマン寺院の設立 | |
1869年 | スエズ運河の開通 | |
1885年 | イースタン&オリエンタルホテル創業 | |
1906年 | クー・コンシー設立 | |
日本 | 1941年 | 日本軍がペナン島を占領 |
イギリス | 1945年 | 終戦後ふたたびイギリスの統治下になる |
マラヤ連邦 | 1957年 | マラヤ連邦がイギリスから独立 |
マレーシア | 1963年 | マレーシア誕生 |
年表を見ると、現在あるペナン島の有名な観光スポットはイギリスの統治時代に建てられていることがわかります。これは、世界各国さまざまな場所から人が集まった結果です。
それでは、次の章から各できごとの詳細を見ていきましょう。
ケダ王国時代
ペナン島は、イギリスの植民地になるまでの500年間、「ケダ(Kedah)」という王国の支配下にありました。しかし、ケダのスルタン(王)はペナン島にあまり興味を持っていなかったので、実質は統治の及ばない非管理下に。
すると、そこに目を付けたインド、東南アジア、アラブ、中国の人たちは、ペナン島で次のものを取引するようになります。
- コショウ
- インド綿布
- 金
- 鉄
- 硝石
- 硫黄
このころから、ペナン島はさまざまな民族が交流する場となり、同時に交易の拠点として栄えていきました。
- イギリスに支配されるまでケダ王国の支配下にあり、交易の拠点だった
1592年:はじめてペナン島に来たイギリス人
イギリス人として初めてペナン島に上陸したのは、エドワード・ボナベンチャー号の船長ジェームズ・ランカスター(James Lancaster)です。彼は1592年、自身と水夫がかかった壊血病の休養のため、3カ月間ペナン島に滞在しました。
壊血病とは、ビタミンC不足が原因で、心身ともに崩壊する恐ろしい病気。長い船旅の中で保存食しか食べられなかった当時の船乗りを、もっとも苦しめました。
イギリスの植民地時代
1786年から第二次世界大戦中の1941年まで、ペナン島はイギリスの支配下になります。ここでは、その経緯やイギリスがペナン島を発展させるために行った政策を見ていきましょう。
1771年~1786年:ターゲットにされたペナン島
1700年代半ば、イギリスの東インド会社は、以下の条件に合う港を探していました。
- フランスの干渉を受けないでインドとマレー半島が往復できる港
- 東南アジアの土地で中国との取引の拠点になる港
すると1771年、マレー諸島で貿易を営んでいたフランシス・ライト(Francis Light)という人物が、「ペナン島というピッタリの場所がありますよ」と申し出ます。
一方その頃、ペナン島の所有権を持っていたケダ王国は、シャム(タイ)の存在を恐怖に感じていました。そんな事情や文化に通じ、マレー語を話すことができたライトは、ケダのスルタン(王)に次のような交渉を持ち掛けます。
「イギリスがシャムからケダを守る。その代わり年間30,000ドルでペナン島を貸与してくれ」
1786年8月11日、ライトは正式にペナン島をイギリスの領地とすることに成功。そして、島をイギリスの皇太子に敬意を払い「プリンス・オブ・ウェールズ」、中心市街を国王ジョージⅢ世にちなんで「ジョージタウン」と名付けました。
- ケダ王国と交渉してイギリスの植民地になった
1787年:国際都市の形成とカピタン制度の導入
イギリスの支配下になり、ペナン島はたくさんの民族が集まり住む場所になっていました。その理由は、ライトが交易を活性化させるために、「土地は移住してくる人々にとって手に入りやすくあるべきだ」と主張し、関税を撤廃したからです。
世界各国からは、以下の人々が集まってきました。
- 中国人
- インド人
- ブギス族
- チュリア人
- アラブ人
- アルメニア人
- ペルシャ人
- シャム(タイ)人
- ビルマ(ミャンマー)人
- アフリカの人々
- スマトラ島に住む人々
こうしてペナン島は、世界の中でもめずらしい国際都市を形成。多民族が持つそれぞれの文化は、現在も色濃く残っています。
- 多くの民族を招き入れて国際都市を形成した
しかし、文化の違ったたくさんの民族が集まったことでペナン島の統治は混乱状態に。この問題を解決するために、ライトは「カピタン制度」を導入します。
カピタン制度とは、それぞれの民族にカピタンと呼ばれるリーダーを任命し、統治を任せること。そしてカピタンには、次の役割が求められていました。
- イギリスと民族間の仲介者
- 民族の問題を自分たちで解決する
- 法律の中に閉じ込めておく
初代の中国人カピタンは、コ・レイ・ファン(辜禮歡)。彼は、中国人をペナン島に招き入れるキッカケとなった人で、民族内の信望がとても厚い人物でした。
カピタン制度を導入したことにより、ペナン島の統治はしばらく良好な状態が続いていきます。
1790年:ケダ王国の反抗
ペナン島の獲得後、イギリスは約束していた「年間30,000ドルの支払い」も「ケダ王国への援助」も一切しませんでした。そんな状況に激怒したケダ王国は、かつてオランダを追い払ったこともあるイリヤヌン族を率いて次の選択をイギリスに迫ります。
- ペナン島から立ち退く
- 援助の保証+年10,000ドルの支払い
ライトは要求に対して、「援助はなし、年10,000ドルで手を打とう」と提案するが交渉決裂。結果、イギリスはケダ王国を鎮圧し、「年間6,000ドル、援助なし」という条件を強制的に受け入れさせました。
コーヒーブレイク:コショウに懸けた想い
ライトは、「ペナン島の未開拓地にコショウ農園を作り、ヨーロッパへ輸出する」という構想を持っていました。そこで、この構想をコ・レイ・ファンに相談し、実務を担当してもらうことにします。
コ・レイ・ファンは、開拓した森林に輸入したコショウの苗を植え、大規模な農園を確立。その甲斐あって、コショウの収穫量を徐々に増やしていきました。
しかし、ここで思わぬハプニングが起きます。トラファルガー海戦でイギリスに負けたフランスが、「大陸封鎖政策」を対抗措置として取ったのです。大陸封鎖政策とは、ヨーロッパ大陸中でイギリスの商船を受け入れず、商品も没収すること。
結果、コショウの価格が下落し、ライトの描いた構想は潰えてしまうのでした。
1806年:造船業の核を目指して
トラファルガー海戦が終わって翌年の1806年、イギリスはペナン島を造船業の核にすることを決定します。これは、フランスの圧力に対抗するための手段の1つでした。
実施する役目を請け負ったのは、初代ペナン総督のフィリップ・ダンダスとトーマス・スタンフォード・ラッフルズ。しかし、以下の理由で計画は頓挫してしまいます。
- ビルマ(ミャンマー)から造船に適した材木が手に入らなかった
- 腕のある造船技師を見つけることができなかった
最終的に造船業の核はセイロン島(スリランカ)のトリンコマリーに移され、ペナン島の発展はまたしてもお預けになってしまうのでした。
1869年:急成長するペナン島
発展のために試行錯誤を繰り返していたペナン島でしたが、1869年に転機が訪れます。スエズ運河が開通し、寄港地にペナン島が選ばれたのです。
すると、今まで違う航路を取っていた船が立ち寄るようになり、島は活気にあふれます。さらに時代の流れも味方して、ペナン島のそばで採れるスズとゴムの需要が急激に高まっていました。
- スズ
保存食に適した缶詰が開発されたことで、材料に使われるスズの需要が高まる。スズ産業の中心地は、ペラ州イポー。
- ゴム
自動車産業の成長により、ゴムの需要が高まる。ゴムの苗木がもっとも育つ場所が、マレー半島の西海岸だった。
こうしてペナン島は輸出の玄関口になり、貿易の収入も2倍に跳ね上がりました。
コーヒーブレイク:イギリス統治下時代に建てられた主な施設
イギリスの統治下155年の間に建てられた、主な施設を年代順にご紹介いたします。
■ ローマ・カトリック大聖堂(Church of the Assumption)
1786年にフランシス・ライトが創立。マレーシアの中でも3番目に古いカトリック教会です。
■ カピタン・クリン・モスク(Masjid Kapitan Keling)
1801年、急増していたインド系移民の祈祷用として、カーディル・ムハディーンが創立しました。モスク名にも入っている「クリン」とは、インド系移民の総称です。
■ セント・ジョージ教会(St. George’s Church)
1819年に創立された、東南アジア最古のイギリス国教会。教会の前にあるパビリオンは、ペナン島発展の立役者フランシス・ライトを偲んで建てられたものです。
■ アチェ・モスク(Masjid Melayu Lebuh Acheh)
1820年、アチェ(スマトラ島の北端地域)出身のトゥンク・サイエド・フセイン・アイディッドが建立。「信仰と結束の場」として役割を果たしていました。
■ マハ・マリアマン寺院(Maha Mariamman Temple)
1833年、南インド出身の商人によって創立されたヒンドゥー寺院です。ヒンドゥー教移民が結集する場として不可欠になっていました。
■ イースタン&オリエンタルホテル(Eastern & Oriental Hotel)
1885年、イラン出身のアルメニア人サーキーズ兄弟によって創業されたホテル。当時は、ペナン島に派遣されているイギリス人官僚の結婚式会場として使われました。
■ クー・コンシー(Khoo Kongsi:邱公司)
1906年に中国の福建省から来た移民クー(邱)族が、祖先を祀るために建てた中国寺院。マレー人の建築技術を取り入れ、高床で風通しが良く、湿気から守れるようになっています。
他にも「税関」「病院」「貯水池」など、さまざまな施設や設備が作られました。
日本の占領時代
1941年から1945年の間、ペナン島は日本の支配下になります。ここでは、日本がペナン島に狙いを定めた理由を見ていきましょう。
1941年~1945年:日本軍がやってきた
第二次世界大戦中の1941年、日本軍がペナン島を占拠します。これは「マレー作戦」と呼ばれた作戦の一環で、次の目的を持って実行されました。
- 東南アジアにいるイギリス勢力の討伐
- 重要な資源を持つ地域の確保
- シンガポールの占拠が最終目標
ペナン島占拠までの道のりはあっけないものでした。なんと、日本軍の度重なる空襲と進軍の速さを恐れたイギリス人が、島を放棄し逃げ出してしまったのです。
こうして無抵抗で手に入れたペナン島の占拠は、1945年の終戦まで続きます。その間に日本軍は、ペナン島に住んでいる中国人の抗日運動を探すと称して、1,600人以上もの命を奪う無慈悲な行動を繰り返しました。
- 第二次世界大戦中は日本軍に占拠されていた
マレーシア時代
終戦後、ついにマレーシアが誕生します。ここでは、「マレーシアが誕生するまでの過程」と「ペナン島が有数の観光地になった理由」を見ていきましょう。
1957年~1963年:マラヤ連邦独立とマレーシア誕生
日本軍の敗北後、ペナン島はふたたびイギリスの植民地となっていました。しかし、以下の地域で構成されたマラヤ連邦がイギリスに反発し、1957年に独立を果たします。
- マレー半島9州
- ペナン
- マラッカ
初代国王にはトゥンアク・アブドゥル・ラーマン、首相にはトゥンク・アブドゥル・ラーマン(名前がそっくりですが別人です)が任命。
その後、マラヤ連邦はさらに「シンガポール」とボルネオ島の「サラワク」「サバ」を加えます。そして1963年、ついにマレーシアが誕生したのです。
※シンガポールは1965年に分離
近年のペナン島
念願の独立を果たしたマレーシアでしたが、民族間の衝突が原因で不況に見舞われていました。そこでペナン島は、経済を活性化させるために以下の政策を図ります。
- エレクトロニクスメーカーの誘致
- ペナン国際空港の建設
- ペナンブリッジの建設
この政策が功を奏し、ペナン島は世界各国の人々が交流する場所に成長。そして現在、島の北部にある「ビーチリゾート」と2008年に登録された世界文化遺産「ジョージタウン」を軸に、マレーシアでも有数の観光地になっています。
- 現在は「ビーチリゾート」と「ジョージタウン」を軸にした有数の観光地に成長
コツのおさらい
- イギリスに支配されるまでケダ王国の支配下にあり、交易の拠点だった
- ケダ王国と交渉してイギリスの植民地になった
- 多くの民族を招き入れて国際都市を形成した
- 第二次世界大戦中は日本軍に占拠されていた
- 現在は「ビーチリゾート」と「ジョージタウン」を軸にした有数の観光地に成長
ペナン島は、決して順調に発展したわけではなく、波乱万丈の歴史を歩んできました。しかしその過去があったからこそ、現在のペナン島が魅力ある場所になっています。
きっとこれからも、さまざまな試練を乗り越えて、今以上に見どころの多い観光地、もしくは長期滞在に適した場所として発展してくれることでしょう。
皆さまにとって少しでも役に立つ情報になれば嬉しいです。読んでいただき、ありがとうございました。
【参考文献・サイト】
- サリーナ・ヘイズ・ホイト(1996)『ペナン 都市の歴史』西村幸夫監修, 栗林久美子・山内奈美子訳, 学芸出版社
- 重松伸司(2019)『マラッカ海峡物語 ペナン島に見る多民族共生の歴史』集英社
- National Geographic Inc.(2017)「大航海時代の船乗りを震え上がらせた壊血病」<https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/011800016/>2019/01/28アクセス
- 西日本新聞(2014)「【太平洋戦線】薄れる占領の記憶 関係者に聞く」<https://www.nishinippon.co.jp/item/o/433467/>2019/02/03アクセス
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