イポーの歴史をまとめてみた!年表使ってわかりやすく解説!
- 2020.06.03
- マレーシア
マレーシアのイポーには、西洋風や中国風の美しい街並みがあります。それは、イポーがスズ産業の中心地として発展したことを表す歴史の名残です。
そこでこのページでは、イポーがどのような歴史をたどってきたのかを年表ベースで解説いたします。
年表
イポーに関する歴史を年表にすると次のようになります(青字は観光やグルメに関するできごと)。
西暦 | できごと |
---|---|
1848年 | ペラ州タイピンでスズ鉱床(大量に採れる場所)を発見 |
1872年 | 中国からの移民が増加し4万人を超える |
1874年 | パンコール条約が締結されたことでイギリスの支配が始まる |
1894年 | イポー鉄道駅完成 |
1895年 | 「ペラ」「スランゴール」「パハン」「ヌグリ・スンビラン」の4つがマレー連合州となる |
1900年 | 地表のスズが枯渇したことでドレッジ方式を導入 イポーを中心にマレーシアが世界最大のスズ産出国になる |
1912年 | 洞窟寺院「Sam Poh Tong」発見 |
1916年 | タウンホール完成 |
1920年 | 洞窟寺院「Kek Lok Tong」完成 |
1926年 | 洞窟寺院「Perak Tong」完成 |
1929年 | 世界大恐慌でスズ価格が下落 |
1941年 | 日本軍の占拠 イポーがペラ州の州都になる |
1956年 | 価格維持と生産安定のため国際スズ協定が採択 |
1976年 | オイルショックを引き金にスズの価格高騰と消費の低迷 |
1985年 | スズ危機が発生し世界中のスズ取引が停止 |
1986年 | スズの産出量半減 多くの人がクアラルンプールやシンガポールに流出する |
1999年 | 「オールドタウン」という商標でホワイトコーヒーの販売開始 |
年表を見ると、マレーシアが世界最大のスズ産出国になった前後に、イポーの有名な観光地が造られていることが明らかです。これは、スズ産出による街の発展とともに、人口が増えて施設が充実した証拠と言えるでしょう。
できごとの詳細
それでは、ひとつひとつのできごとを詳しく見ていきます。ところどころにコーヒーブレイクを挟んでいますので、ゆっくり勉強していきましょう。
1848年~1872年:スズ鉱床発見と中国からの移民
1848年、イポーと同じペラ州に属するタイピン(イポーから北西に60kmくらいのところ)という場所で、マレー人がスズ鉱床を発見しました。
この発見をきっかけにして、中国南部から多くの人が船を使ってマレー半島に移民を開始。スズ鉱床の発見時にはたった3人だった中国系の民族が、1872年には4万人を超えるほどまで増加しました。
実は、この急激な増加の裏には「自由移民」と「補助移民」という移民の形態に秘密があります。そこで、この2つの移民形態を見ていきましょう。
■ 自由移民
- 自分で費用を負担
- 雇用先を自分で選択
要は、「自己責任で一攫千金を狙うぞ!」と、張り切ってマレー半島に渡った人たちを表す移民の形態です。比較的裕福な人たちが、この形態で移民を行いました。
■ 補助移民
補助移民は、さらに2つの方式に分かれます。1つ目の特徴は以下です。
- 雇い主が船主に経費を払う
- 支払いがないと移民は拘束され続ける
これは、「移動の間うちの社員をお願いします」と、雇い主が船主に世話を頼む移民の形態。雇ってくれる場所をあらかじめ探して決めた人たちが、この形態で移民を行いました。
2つ目の補助移民の特徴は以下です。
- 移民を管理する人(頭家)が経費を負担
- マレー半島に着いたら移民を雇ってくれる場所を探し引き渡す
- 頭家には雇い主から高額な報酬が支払われる
これは、頭家が移民をあっせんする形態。一見win-winな形態ですが、頭家が高額な報酬目当てに行きたくもない人たちをかき集めていたという悪質な面もあります。
これらの移民形態により、夢を持った人から不可抗力で来た人までさまざまな移民がマレー半島に押し寄せました。そして現在、中国系の民族がイポーの人口の7割を占めているのも、このとき移民してきた人たちの子孫が多いからです。
- スズ鉱床発見をきっかけに中国からの移民が急増した
1874年:イギリスの植民地的支配
中国からの移民でマレー半島のスズ産業が盛んになっていたころ、イギリスでは産業革命が起こっていました。その中で開発されたものの1つが、腐食しにくいスズを原料にして作る「ブリキの缶詰」。
この時代、保存食として活用できる缶詰は急激に需要が増加していました。するとイギリスの缶詰開発に使用していたスズは、自国のコーンウォールという場所で採れていたものだけでは不足するようになります。そこで、新しいスズの産地として目を付けたのがマレー半島でした。
そんな中イポーを含むペラ州では、スズの管理をめぐって内紛が勃発。これをチャンスと見たイギリスは次のように考えます。
「内紛を収めればマレー半島の主導権を握れるぞ」
そして1874年、イギリスはパンコール条約を結ぶことで内紛の鎮圧に成功。こうしてマレー半島は、イギリスの植民地として扱われるようになるのでした。
- 内紛の鎮圧を理由にイギリスの植民地的支配がはじまった
コーヒーブレイク:観光スポットになった建築物たち
難しい話が続いたので少し休憩です。
イポーの中心部は、キンタ川を境に「西側は旧市街」「東側は新市街」と名付けられています。その旧市街にあるのは、イギリスの植民地時代に造られ現在は観光スポットとなっているたくさんの建築物。
それらの建築物は、「植民地の」という意味で「コロニアル建築」と呼ばれます。特に有名なのは、スズ供給の要であった「イポー鉄道駅」と「タウンホール」。白を基調とした外観はとても美しく、イポーがたどってきた歴史を存分に感じることができます。
1895年~1900年:マレー連合州と新しい技術の導入
1895年、イギリスは特にスズが採れる以下の州を「マレー連合州」と名付けました。
- ペラ
- スランゴール
- パハン
- ヌグリ・スンビラン
この中でもイポーを含むペラ州は、スズ生産量の半分を占めていたと言われています。マレー連合州は次の図の赤で囲った部分です(図はクリックすると拡大できます)。
しかし1900年代に入ったころ、地表のスズが枯渇。その問題を解決するために導入されたのが、ニュージーランドで発明された新技術「ドレッジ方式」です。
効率の良い作業を実現したドレッジ方式は、イポーを中心としてマレーシアを世界最大のスズ産出国に押し上げました。ただしドレッジ方式はたくさんの費用を必要とするため、導入できたのはお金を持っている西欧系企業ばかり。その結果、スズ鉱床の発見以降ずっと主導権を握っていた中国系企業は、ドレッジ方式を導入できず廃れていってしまうのでした。
- イポーを中心としてマレーシアが世界最大のスズ産出国になった
1929年~1941年:世界大恐慌と日本軍の占拠
1929年、あの有名な世界大恐慌が発生。それまで順調に発展していたマレーシアのスズ産業も、漏れなく損害を受けてしまいます。
そしてスズ産業の低調が続く状態で第二次世界大戦が勃発。1941年に日本は、石油の供給を止められたことから新しい資源を求めて、マレー半島に攻め込み占領に成功します。
コーヒーブレイク:たくさんの洞窟寺院
暗い話になってきたので、ちょっと一息。
イポーの中心部から少し離れると、洞窟を利用して作られたたくさんの中国寺院があります。それは、かつてスズ産業のために中国から移民してきた人たちが大勢いたことを示す証。
特に有名な洞窟寺院は次の3つです。
- ケロットン(Kek Lok Tong:極楽洞)
- ペラトン(Perak Tong:霹靂洞)
- サンポトン(Sam Poh Tong:三寶洞)
そこには「自然にできた鍾乳洞」や「美しい庭園」「巨大な仏像」など、寺院によってさまざまな魅力が詰まっています。
1956年:第一次スズ協定の採択
スズは、他の金属に比べて価格の変動が激しいという問題がありました。そこで1956年に結ばれたのが、価格維持と生産安定を目的とした「国際スズ協定」。
この国際スズ協定には次の2つの特徴があります。
- 生産国と消費国が参加している
- 最低価格と最高価格を決めている
国際スズ協定には、もちろんマレーシアも参加。世界的にも高評価を得て、約20年の間、スズの価格維持と生産安定を実現していくことになります。
1976年~1985年:スズ市場の下落ふたたび、そして人民の流出
しばらくはうまく機能していた国際スズ協定でしたが、オイルショックを引き金にしてスズ市場も大混乱。安定していた価格は高騰しはじめ、同時に消費の低迷が相次ぎます。
そして1985年、価格維持のコントロールができなくなったことで国際スズ市場が下落。ロンドン金属取引所やアジアの市場など世界中のスズ取引が停止し、マレーシアも壊滅的な打撃を受けました。
このような事態に陥った原因は次の2つが挙げられています。
- 国際スズ協定に参加しない国が増えていた
- 密輸が増えていた
その後も不況の歯止めが効かず、世界最大を誇っていたマレーシアのスズ産業はさらに低迷。結果、イポーにいる多くの人が新天地を求めてクアラルンプールやシンガポールへ流出してしまうのでした。
- 国際スズ市場の下落をきっかけとしてイポーにいた多くの人が他の都市へ流出した
おまけ:オールドタウン・ホワイトコーヒーの出店
この記事のおさらい前にプチ情報を1つ。
今やマレーシアにとどまらず海外にまで進出している「オールドタウン・ホワイトコーヒー(OLDTOWN White Coffee)」。実はその創業者は、イポーのナム・ヘオンというレストランの一族です。
旧市街にあるナム・ヘオンとオールドタウン・ホワイトコーヒーは、今や有名な観光スポットの1つ。イポーへ行った際は、両方のお店に行ってホワイトコーヒーの味比べをしてみるのも面白いかもしれません。
コツのおさらい
- スズ鉱床発見をきっかけに中国からの移民が急増した
- 内紛の鎮圧を理由にイギリスの植民地的支配がはじまった
- イポーを中心としてマレーシアが世界最大のスズ産出国になった
- 国際スズ市場の下落をきっかけとしてイポーにいた多くの人が他の都市へ流出した
スズ産業の中心地として一時は大発展を遂げたものの、度重なる不況のあおりを受けて衰退してしまったのがイポーという街です。しかし近年は、スズ鉱床の跡を観光地に利用したり「美食の街」として売り出すなど、近代化を目指して再開発が図られています。
皆さまにとって少しでも役に立つ情報になれば嬉しいです。読んでいただき、ありがとうございました。
【参考文献・サイト】
- (2001)『岩波講座 東南アジア史〈6〉植民地経済の繁栄と凋落』岩波書店
- 目で見る世界史「缶詰とマレー半島 世界史小ネタ第59回」<http://history.husigi.com/VHv2/koneta59.htm>2020/06/02アクセス(リンク切れのためリンク削除)
- Malaysia Life(2013)「スズ鉱産業」<http://perakipoh.blogspot.com/2013/06/blog-post_24.html>2020/106/03アクセス
- 西山孝, 別所昌彦(2012)「わが国における現未来の金属資源戦略」<https://www.jstage.jst.go.jp/article/journalofmmij/128/1/128_1/_pdf>2020/06/03アクセス
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